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群れることが嫌い

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幼稚園児の頃から群れることが嫌いで、ずっと一匹羊(「狼」と言えるほど私は強くないので「羊」です)で生きてきました。常時、大勢の人と繋がって、お互いに共感し合い、肯定し合い、安心し合う、という構図が苦手です。

爆笑問題の太田さんは高校生時代、友人が一人もいなかったそうですが、私の青春もそんな感じでした。群れることは、弱者の集団安保のような気がします。

私こそ典型的な弱者なのですが、集団安保によってもたらされる安全というメリットよりもデメリットの方が大きいと感じていました。

集団安保の中では本音を自由に言えないデメリットです。浮いた存在にならないように、自分が変人であることを常時、隠し続けなければならないのはストレスです。大きなデメリットです。

不器用な私は集団の中で媚びへつらうことが苦手です。そのため、現在でも安全な羊の群れに属さず、危険な一匹羊のままで生きています。だからこそ、「協調性」と呼ばれる「群れる能力」が重視される会社人間に私がなれなかったのは当然です。

地球には色々な動物がいるように、人間社会でも「チームプレイが得意な人」、「個人プレイが得意な人」など色々な人種がいて、それでいいのでしょう。

両方とも存在しているということは、それぞれの存在意義を神様が認めているはずです。それなのに、「友人が多い」ことを絶対善とするような、多様性を認めない日本社会が苦手です。「ともだち百人できるかな?♪」の歌詞が嫌いでした。

友人が少ない人物を、まるで反社会的な危険人物であるかのようにみがちな、画一的価値観を押しつける日本社会を息苦しく感じます。

海が好きな人もいれば、嫌いな人もいるのは当然です。同様に、ワイワイガヤガヤが好きな人もいれば、嫌いな人もいて当然です。群れる、群れないは単なる嗜好の問題です。

個人プレイ派の私は、今は集団に属さず、集団安保で保護されない不安はあるものの、毎日、毎日、自由な空気を満喫しています。安全を取るか、自由を取るか、の選択ですね。

世間の大部分の聡明な人々は「安全」と「自由」の両方を確保しているのに、不器用で気の毒な私にはそれができないのです。


















 

by robocop307 | 2011-05-28 19:52  

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