「自分」とは何か
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先日、「アインシュタインの相対性理論は理解できない」と書きました。もう一つ、中学生時代から、本日に至るまでずっと分からないことがあります。
それは、「自分とは何か」という問題の答です。
この世から、「魂」とか「神」とか「心」とか、その種のものを一切取り除いて考えてみましょう。そうすると残ったものは物質のみです。いわゆる「唯物論」と呼ばれる考え方かもしれません。
この世の中が素粒子から構成される物質とエネルギーのみで構成されていると仮定します。現代科学の唯物論では、「心」というようなものは説明できませんから、「仮定」というよりも、そのように考えることが普通です。
しかし、この世の中が物質のみから構成されているとすると、地球上の全人類は、単に「装置」ということになります。光を眼というセンサーで探知し、脳に信号を送る。音声は耳というセンサーで探知し、同じく電気信号に変換して脳に送られる。
脳では、様々な信号を処理して反応したり、考えたりする。「考える」といっても、計算機の「処理」と同じです。唯物論では、もちろん、金属やプラスチックでできている本物のロボットに「心」があるとは考えません。
唯物論の視点では、人間だって、材質が金属やプラスチックではなく蛋白質であるという点を除けば、単なるロボットと変わりありません。つまり、唯物論では、ロボット同様、人間にも「心」は存在しないことになります。
仮に地球の人口が72億人だとしたら、地球上には、「心」がない、ただそのような装置が72億個存在しているだけ、ということになります。それら72億個の装置は、性能や特徴の違いはあるかもしれませんが、地球上の全ての人類でお互いに対等のはずです。
だとすると、ここから先が分かりません。単にこの世には、光や音に反応し、計算、処理する72億個の装置があるのですが、その中のたった1個である「自分」とは、いったい何なのでしょう???
私が朝起きたとき、この世には72億個の装置が処理している72億個の視界があるはずなのに、なぜ、自分は、その中のたった1個の視界を「見る」のでしょう。その1個が選ばれている根拠は何なのでしょう?なぜ、自分は他のAさんやBさんやCさんの装置(脳)が処理している視界を見る立場ではないのでしょう?
物質としての装置なら72億個の全てがお互いに対等、平等であるはずです。それなのに、そこに「自分」という特別な1個の装置が存在し、対等性が崩れている現象はどう説明されるのでしょうか???さっぱり分かりません。
恐らく、私のこの疑問は、「この人、バッカじゃないの?」と思われるだけのバカ丸出しなのだと思います。
「その72億個の装置は、それぞれその装置自身を特別な『自分』と感じているので、72億個の装置の間での対等性は崩れていませんよ」という説明は、私には納得できません。なぜ納得できないかは、残念ながら私には言葉で説明することができません。
私が感じている謎を他人に言語で説明できないこの現象は、まるで、地球上の人類がこの不思議(矛盾)に気づくことを禁ずるための壁のようにも感じます。(気は狂っていません。大丈夫です!(^^ゞ )
中学生時代、私はこの疑問を私の親に説明してみましたが、やはり、「何バカなこと言ってんの、この子は!」という反応でした。つまり、理解してはもらえませんでした。
しかし、同級生の中の二人だけが共感、理解してくれました。理解してくれたというよりも、私が話す前から同じ疑問を持っていたとのことでした。少数ですが、私以外にも私と同じ不思議、矛盾を感じている人はいるようです。
中学生時代のその二人の同級生は、二人とも大学で理学系の数学科に進みました。ですので、私と同じ疑問を感じる人間は非論理的な人間だとは言えないでしょう。
最近では次のように推測しています。「心は存在しない」と仮定することで、この矛盾に突き当たっているのだから、「心は存在しない」という仮定自体が誤りなのではないか、と。
言い換えれば、唯物論では「自己」という概念を説明できないので、これが唯物論の限界なのではないか、と感じます。簡単に言えば、唯物論は破綻しているのではないでしょうか。
光が網膜で電気信号に変換され、脳に送られ、処理されているという装置の現象には、動詞「見える」という概念が入り込む余地はありません。「見える」という概念は、光を主観的に観察している「何か」の存在を前提としている表現です。
光を主観的に観察しているその「何か」を私たちは「心」、あるいは「自分」と呼びます。何かを見たり、感じたりする「心」の存在を唯物論では説明できないので認めていません。
そうなると、「私も光が見えます」と感じるあなたにとっても、唯物論は破綻していることになりませんか?唯物論は光を処理する装置の仕組みは説明できますが、光が見える「心」や「自分」の存在を説明できないからです。
唯物論とは、今から数千年後には、「古代の人が信じていた古典的概念」みたいな扱いになるのではないでしょうか。ちょうど古代の人間が「地球は平らである」と信じていたように。
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by robocop307 | 2013-03-27 21:43 | つぶやき